エジプト旅行紀行文
古代エジプト幻想紀行(JTB) 2001年9月17日〜24日
その1 「ピラミッド」
私が世界遺産に興味を持ち始めたのは、エジプトを訪れた時からである。エジプトは5000年の歴史を持つ古代文化都市であり、カイロ近郊の「ピラミッド地帯」だけでなく、ツタンカーメン王の墓が発見されたことで有名な「古代都市テーベとその墓地遺跡」や、世界最大の岩窟神殿である「アブ・シンベル神殿」など世界的に有名な世界遺産がある。

エジプトと言えばピラミッドと思われるように、エジプトには確認されているだけで80基以上のピラミッドがある。階段ピラミッドや屈折ピラミッド、赤ピラミッドなどさまざまな種類がある。その中でもスフィンクスとともにテレビなどによく出てくる有名なピラミッドは現在の首都カイロの南西約13kmにあるギザ地区の3大ピラミッドである。 ちなみに、カイロはごく最近(イスラム時代)になってからできた新しい街で、古代エジプト王朝時代にはカイロという文字は全くでてきません。

私がエジプトを始めて訪れたのは今から14年前の1992年であるが、その感動が忘れられず2002年に再び訪れた。自分の目で初めてピラミッドを見たときにはその大きさに圧倒され、本当にエジプトにやって来たんだという感慨が涌いた。本当にでかい!遠くから見るとレンガを積み上げたように見えるが、実際は一つの石の高さが人間の背丈くらいある。相当手前からでないとピラミッド全体がカメラに収まらない。こんなでかいものが今から4500年も前に造られたとは驚きである。

 この3大ピラミッドは北からクフ王、カフラー王、メンカウラー王と建造年代順に並んでいて、古いものほど規模大きく、高さ137m(上部9mは崩れて喪失)、底の一辺が230mで、平均2.5tの石を230万個も積んだという最大規模を誇るクフ王のピラミッドは大ピラミッドと呼ばれている。

そのクフ王のピラミッドの中に入るには、正式な入口は建造後に閉ざされたままなので、9世紀に財宝目当てに侵入した「盗掘口」という穴を利用する。全長40mの上昇通路を登り、大回廊を通って王の間に入る。中に入るとは熱気&湿気がこもり、ムシムシしている。おまけに急な階段を登っていくので汗ダラダラ・息も絶え絶え状態である。王の間には空っぽの棺が置かれているだけである。発見された時から棺は空っぽだったそうで、そのためまだどこかに本当の棺が安置された部屋があるとも言われている。

また、ピラミッドの前にある大スフィンクスは全長57m、高さ20m。ピラミッドのように石を積み上げたのではなく、岩盤を削って建造されたものである。スフィンクスが何のためにつくられたかは、今も明らかでない。

エジプトでピラミッドが造営されたのは古王国時代(紀元前2650年頃〜2180年頃)でこのギザに造られた3大ピラミッドは、ピラミッド時代のピークを飾ると同時に、王権の絶頂期を示している。以後王は神ではなく、太陽神アメン・ラーの子となり、王権も弱体化し、混乱の時代が続くようになる。それにつれてピラミッドも小さくなり、質も低下していくのである。


その2 「古代都市テーベとその墓地遺跡」
古代都市テーベ(現在の名はルクソール)はピラミッドが造営された古王国時代後の混乱の時代を経てエジプトが再統一された新王国(紀元前1542年ごろ〜前1085年頃)に首都として栄えた都市である。古代エジプトでは新王国第18王朝期には史上最高の栄華を誇る大帝国になった。

この町にはナイル川が流れており、その東岸は生者の都といわれ、神殿や住居区が建設された。中でも国家最高神であるアメン・ラーに捧げられたカルナック神殿は約500年間、歴代王の寄進や増改築繰り返したため、エジプト最大規模となった。入口に入った瞬間その荘厳さと巨大な石柱の立ち並ぶ広間や精巧なレリーフによる装飾など、見るものを圧倒する。とても1日で見られる広さではない。

また、カルナック神殿より3km南にあるルクソ−ル神殿は、広さ自体ではカルナック神殿には及ばない。それもそのはず、この神殿はカルナック神殿の付随神殿として、年に一度、ナイル増水期にアメン神が、妻のムト女神とすごすオペト祭りを祝うために造られたものであり、かつてはスフィンクスで飾られた参道でつながっていたというからすごい。

ナイル川西岸は死者の都といわれ王家の谷、王妃の谷と呼ばれる墓所や葬祭殿がある。王家の谷は黄金で飾られたツタンカーメン王墳墓が発見されたところで有名である。この谷には名前のとおり、新王国時代歴代の王の墓がたくさんあるが、そのほとんどは盗掘にあって壁画以外ほとんど装飾品は残っていない。ではなぜツタンカーメン王の墓だけ盗掘をまぬがれたか?それは、今でこそツタンカーメンの名は世界的に知られているが、ツタンカーメンは幼い時代に王位についたが、宗教改革に失敗したため、異端の王として、後の時代の王名表からその存在を抹消されてしまったことが最も大きな要因のようである。このため、墓泥棒たちはツタンカーメン王の存在及びその墓があるとは気づかなかったようだ。

また、若くしてなくなったため、墓の用意が間に合わず、他の人の墓として用意したものを利用したこともその要因の一つであり、実際に中に入ってみると他の王の墓より小さい墓でびっくり。しかし、この小さい墓から2000点をこえる豪華な装飾品等が発見されたと思うと驚きである。これらの装飾品はカイロのエジプト考古学博物館に展示されているが、それはものすごい量で、2階の広大な展示室の半分を占めている。若くして亡くなり、記録から抹消された王ですら、当時の最高技術を駆使した芸術品で黄金製もしくは金箔を張った豪華な装飾品がたくさん発見されているのを考えると、もし、有名な王の墓が無傷で発見されていればと思うと気が遠くなる。


その3 「アブ・シンベル神殿」
古代エジプトで最も有名なファラオは新王国時代の第19王朝で67年間エジプトを支配したラムセス2世である。彼は自己顕示欲が強く、建築王とも呼ばれるくらいエジプト各地に多くの巨大建造物を建築し、自分の像を作らせ、名前を彫らした。

その中でも最も有名なのが紀元前1200年頃にエジプト南部のナイル河畔の一枚岩から掘り出された、岩窟神殿のアブ・シンベル神殿である。

高さ33m、幅33mのファサードをもち、入り口に掘られた高さ22mのラムセス2世の4体の巨大な像がある大神殿と、最愛の妃であるネフェルタリの為に、結婚25周年を記念して造られた小神殿が少し離れて並んでおり、ファラオの偉大さを物語っている。

目の前に現れた大神殿のラムセス2世の4体の巨大座像を見たときの衝撃は、感動で腰を抜かすほどである。むかってくるものすべてを威圧してしまう存在感がある。

神殿の内部に美しい壁画が隙間なく彫られていてとてもすばらしい。その中でも最深部にある至聖所と呼ばれる部屋がまたすばらしい。この部屋にはラムセス2世と3体の神の像の計4体の像があり、1年のうち、春分と秋分の日の2日だけ、朝日が東からまーっすぐ差し込み、最深部に到達し、4体の像を照らす神秘的なすくみになっている。ここに光が到達するまでに、何層にもわたって四角い囲いを通過し、余分な光が入らないよう見事に設計されている。

とてもとても数千年前の人々が、ただの岩山を掘って作り上げたとは思えない。右から2体目がラムセス2世の像で一番光が当たるように設計されている。ちなみに一番左の像は闇の神様であまり光が当たらないようにまで設計されていると言う。現に左の像の顔ははっきり映らない。だから右の3体中心に光があたる。いや、ほんとうにすばらしい、見事である。

なお、この神殿は、アスワン・ハイ・ダム建設のため、水没の危機にさらされたが、1960年からのユネスコの遺跡救済キャンペーンで、日本を含む35カ国の資金援助で、神殿を1万6000個に分割・解体してやや内陸の高台に、元の位置より65m高い現在の場所に4年をかけて移築されたものである。

これが「世界の価値ある遺産を守ろう」というユネスコの活動の始まりであり、その後1972年の総会において世界遺産条約が採択され、現在では世界中で価値ある遺産が世界遺産として登録されている。

エジプトには92年、02年と2回訪れているが、最初の訪問時にくらべると、観光客が増加したのもあるが、イスラム教シーア派の過激派による観光客をねらったテロが発生したことで、各所ともセキュリティがとても厳しくなっている。また、世界遺産の修復も進み、観光地化され、なかにはまるでテーマパークのようになりつつあるところもある。 でも、さすが5000年の歴史がるエジプト!もう一度、行きたと思っています。



管理者:浜端計行

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